間取りと木軸構造の工夫でコンクリート数量を抑え住宅の工事金額減を行う_大津K-HOUSE=in the compound=

基礎工事の様子までを前回にご報告させて頂きましたが、今回と次回はいよいよ建物の全容が見えて来る木工事の工程についてお話し致します。

今回の木軸フレームの特徴は1階と2階の投影面積が異なる事です。下図をご覧下さい。こちらは1階平面図になりますが、色で斜線ハッチの掛かった部分は1階の外側にはり出している2階部分です。

青の斜線ハッチは張り出し部の先端に独立柱が地上から建ち、上階を支えている箇所です。これに対して赤色の斜線ハッチは先端を支える柱が無い、いわゆる片持ち出しの床になります。この1階が2階より面積が小さい事は、コンクリート基礎の量が抑えられる事に繋がり、工事費の抑制に効果があります。また、出入口付近では雨掛かりを避ける庇の代わりとして働き、敷地境界付近では建物外周にゆとりを持たせる効果などがあります。

下図は2階床の木軸フレームを表しています。赤く斜線ハッチが掛けられている部分は1階の外壁の外側に跳ね出している箇所です。それぞれの梁は建物内部から外にはり出している様子が判ると思います。

フレーム図の18a-19a付近の破線による赤丸で囲った箇所がありますが、こちらは角隅が跳ね出しています。この様な2方向の跳ね出しは実は難しく、今回は構造解析をお願いしてフレーム設計を行っております。具体的には、E通りJ通りの梁が直交する18a通りの梁(紫色の斜線ハッチが掛かっている箇所)を載せているといった構成になっております。

下図はそれぞれの梁が設置される高さ表していますが、上下方向の勝ち負けがつけられている様子が判ると思います。

当該部は屋外テラスとして使うため、これらの梁天場の高さと排水を行う勾配とを組み合わせて納められています。

竣工に向けてお客様におもてなしを頂きました_NARIHIRA RECEPTION_140807

外部周りが仕上がり、足場が外れました。今まで養生されていて見えなかった部分が現れ、ようやく外観の全体像が見えました。

工事は内装工事が主体になり、最後の詰めに入ってきました。下地が組まれ、ボードが張られ、仕上材、塗装が順次、施されてゆきます。現場がものすごい勢いででき上がってゆくので、ここでの監理は非常に重要になります。

そんな中、お客様のご厚意で、施工者さんも交え、隅田川花火を現場屋上で観賞させて頂きました。スカイツリーの背後に上がる花火は、まさに東京ならではの風景で、大変素敵なひと時を過ごさせて頂きました。竣工まであと少し、ラストスパートを掛けて進んで行こうと関係者一同、改めて結束を固めた次第です。

平屋の魅力を考える

最近は一軒家をお考えのお客様の中で「平屋」を前提にご相談を受けるケースが増えて来ました。かつては多くの日本家屋が平屋でしたが、現代ではその希少価値と相まって、改めてその良さが見直されている様に思われます。それでは、お客様を惹き付ける平屋の魅力とはいったい何なのでしょうか。

M-HOUSE=INSIDE AND OUTSIDE=

■地に根ざした暮らしが臨める

敷地が平坦であれば、建物の周りには地面があります。庭や路地、植栽といった外構を作り込むこむ事によって、建物内部と屋外の関係を積極的に活かした計画が可能になります。庭や縁側のある暮らしを現在の生活様式に組込む事は、日本らしい「自然を身近に感じる生活」の原点ともいえるでしょう。

■水平移動で完結できる(上下移動がない)

ワンフロアに全ての部屋、機能があるため、水平移動のみで生活が行えます。上下移動が無いことは家事を行う上での効率アップが計れるでしょう。また年齢を重ねるにつれ上下移動が大変になると云うのは良く聞きます。上階が無いという事は、将来的に行き辛い部屋を生みにくいという事に繋がるでしょう。

■家族のコミュニケーションが図り易い

間取りによる所は大きいですが、ワンフロアで暮らしている事で、視線や声が通り易くなるといえるでしょう。上下階に分かれて暮らしているより、お互いの存在を感じる事が容易といえるかもしれません。

■構造が堅牢になる

平屋は多層階の建物に比べて、高さを抑える事ができるため、地震、強風によって受ける外力が少なくなります。これにより、構造的に有利な建物形状が作り易いといえます。また、

■部屋の大きさに自由度が高い

平屋は多層階の建物における地上階に比べて、必要とされる柱、構造壁が軽減されるといえます。多層階の建物は、上階を支える構造が下階に必要になり、間取りにはある程度の制限が生まれる事になります。上階の床,壁,屋根を下階が支えているため、それに見合った、柱、梁が必要になるからです。

また、梁間の距離にも限界があります。広い部屋を計画した場合、独立した柱が出てきたり、構造上必要な壁が出て来るケースもあります。これに対して、平屋は、重量の軽い屋根を支えるだけであるため、構造上の成約も比較的クリアし易く間取りの自由度が増すといえるでしょう。

このように、たくさんの良い事がある平屋ですが、実際には皆さんの周りにはあまり多くは存在しません。平屋を持つ上で越えなければならないハードルが存在するからです。次回は、このあたりについて述べたいと思います。

  1. 平屋の魅力を考える
  2. 平屋を手に入れる上で越えなければならないハードル
  3. 平屋を建てるのに必要な土地の広さとは 平屋と土地の関係
  4. 平屋の醍醐味 内部と外部の関わり合い
  5. 内に開く平屋 中庭を持った平屋の場合
  6. 傾斜地でも平屋の暮らしを
  7. 傾斜地を活かした平屋暮らし1 K-HOUSE=in the Forest=
  8. 傾斜地を活かした平屋暮らし2 K-HOUSE=in the Forest=

原風景に想うこと5_港区赤坂高橋是清翁公園

この投稿は建築家31会のブログリレー「ばとろぐ_2013/08/23」を一部加筆したものです。

カナダ大使館と草月会館に挟まれた高橋是清翁記念公園は、樹齢50年を越す高木が繁り水の流れもある回遊式庭園で、春先の新緑や秋の紅葉が美しさなど四季折々の表情を見せてくれます。この広々とした公園はかつて、明治から昭和初期にかけて活躍した高橋是清の居住地でした。

穏やかな時間が流れるこの都会のオアシスも、今から約三四半世紀前には大きな事件に見舞われます。青年将校による重臣たちの襲撃、2・26事件です。当時、軍部の政治介入に批判的であった高橋是清蔵相の暗殺により、日本は戦争への道に進む事になります。

戦災による被害で建家は焼失してしまいましたが、それを取り巻く庭園は往時の姿を偲ばせます。現在、庭園の奥まった小高い場所には高橋是清像が設けられています。毎年2月26日にはこの銅像の前に花束が手向けられているのを見掛けます。銅像の視線の先は、かつて母屋があった2階辺りを向いており、自らの終焉の地を眺めている様にも捉えられます。

実は、建家は全て焼失してしまった訳ではありません。1941年に母屋は多摩霊園の休憩所として移築されたため、1945年の東京大空襲の戦災を逃れる事になりました。現在は、小金井公園の江戸東京たてもの園に移築され公開されています。開戦の舞台となった建築が、歴史的事象を織り込みつつ、家主が不在のまま半永久的に生き残る事になるという・・・何とも数奇な運命を感じざるをえません。

原風景の想うこと1_赤坂見附

原風景に想うこと2_富山市舟橋

原風景に想うこと3_滋賀県大津市膳所

原風景に想うこと4_千葉県君津市

原風景に想うこと5_港区赤坂高橋是清翁公園

原風景に想うこと4_千葉県君津市

この投稿は建築家31会のブログリレー「ばとろぐ_2013/08/22」を一部加筆したものです。

人々が集まって住み、人工物を作り、市街化する事は、多かれ少なかれ何かしらの歴史(時間経過の痕跡)が折り重なっている事が想像されます。時間をかけて未開拓の地を開墾し、時代に合わせて築造と解体を繰り返して来たからです。

土木構造物、建造物などが多くひしめき合うに連れ、都市へと変わって行く訳ですが、これらの人工物があまり無い場所は、地形そのものの姿が見えやすい状態にあるといえましょう。

以前に房総半島で計画した住宅K-HOUSE=Spread BELOW=は、映像作家のSOHOでした。小高い丘の頂きに位置する計画地は、すり鉢状に広がる深い緑に覆われた山肌と谷底の池を臨む優れた景観をそなえていました。緩やかな傾斜は東方向の平野に開け、遠くには街並も点在し夜景を彩ります。敷地西側の接続道路の向かいは奇麗に植樹された平坦な果樹園が広がり、アプローチ部分の雰囲気を高めてくれていました。

敷地内には10M前後の高木も茂り、深い緑を形作るとともに、山肌の裾野には竹林が広がり風景にアクセントを与えます。

敷地北側の隣地は低木に覆われ、視界を遮るものがなく雄大な景観を臨む事ができます。接続道路から北東の眼下に広がる風景はアイスポットとなる谷底の池などの特徴的な景観を有し、背景、あるいは借景として建築空間に取り込む事が、今回の計画を行う上でも重要な要素と捉えました。

室内からは、この北東方向の景観を臨む事のできる大きなパノラマウィンドウを設けました。吹抜けに面したこの開口は4M×4Mのサイズになり、建物外観にも印象的な形態をもたらします。接続道路を北側からアプローチして来た時には、深い緑を背景に建物の全容を見る事ができ、その存在感を感じる事ができるでしょう。また、殆どが傾斜地となる今回の敷地は、屋外のまとまった平場がありません。自然に囲まれた生活をする上で、屋外作業を行える場所として、あるいは、来客も含めた充分な広さの駐車スペースとして、そして何より、この景観を満喫する事ができる展望テラスとして、屋上を利用した新たな大地を道路レベルに生み出します。

建物の全体構成は、道路と同じ高さの屋外テラス、駐車場の屋上階レベル、オフィス、カフェ等の土足ゾーンとなる2階レベル、リビング、ダイニング、ベットルーム、水廻り等、生活の中心となる1階レベルの3層になります。敷地の傾斜に沿った形で段状に箱を積み上げる事により、合理的且つ強固な構造体とする事ができます。室内は吹抜けを含んだ一体の空間としてつながっており、通風、換気にも効果的です。各階には小さな段差を絡めながら使う用途による場所性の変化を緩やかに与えます。仕事に関係する来客は2階レベルのカフェを中心に利用します。吹抜けを介して1階のリビングと面する事により、北側の大開口から眼下の池を臨む事が可能です。また東側の大きな壁面はプロジェクターを使った投影を行う事もでき、さながらシアターの様な使い勝手も望めるでしょう。

よりプライベート性の高い寝室、水廻りはカフェの下部へと配置する事により、来客の視線が直接届かない奥まった空間になります。

 

追記2017/05/15:この計画は、コンペ提出案になります。結果は落選だったのですが、提案としてはとても気に入っております。これを実現できる様な機会が訪れると良いのですが・・・。

原風景の想うこと1_赤坂見附

原風景に想うこと2_富山市舟橋

原風景に想うこと3_滋賀県大津市膳所

原風景に想うこと4_千葉県君津市

原風景に想うこと5_港区赤坂高橋是清翁公園

原風景に想うこと3_滋賀県大津市膳所

この投稿は建築家31会のブログリレー「ばとろぐ_2013/08/21」を一部加筆したものです。

先日、模型展にいらしたお客様とご縁があり、琵琶湖の南端に位置する大津の膳所(ぜせ)に行く機会を頂きました。初めて見た琵琶湖は、湖とは思えない広大な水面をたたえていました。この雄大な景色と豊かな自然の恵みは、多くの歴史的資産と文化を育みました。大津・膳所は東海道に栄えた宿場町として、また戦略的な要所として名将が築城に関わるなど、由緒ある歴史に彩られた街です。明治維新以降は近代・現代の暮らしへと移り変わる中で都市化が進むと共に、今もなお城下の風情を感じさせる築造物が散見されます。湖面に浮かぶ様に築かれた膳所城が水と密接な関係を持っていた様に、現代は湖岸沿いの整備が進み、良好な親水空間が生み出されている事はその象徴ともいえます。

今回の計画地は、膳所城下の北端に位置し、かつては番所・札所があった辺りとされます。敷地の西側に流れる相模川は城下町の外曲輪に位置づけられ、現在も堀の面影を残しており、近隣の寺(元膳所藩家老屋敷)は大津方面からの守りの拠点として重要な位置をしめていました。前面道路の旧東海道はこの寺を迂回する様に屈曲しており、特徴的な街道の景観を今に残しています。街道沿いには多くの商家が軒を連ねていたため、間口より奥行が深い町屋独特の地形が多く存在している事の要因と予想されます。

道路境界まで建物が作られる町屋による街並は、街道に建家が直接ひらかれる形態です。これは道路と店先の境界が曖昧なため、外部と内部の連続感が生まれ、来客を促すひとつの空間構成といえます。

現代の暮らしは、モータリゼーションと切り離す事ができません。多くの人々の往来があった旧東海道は、近隣住民の生活道路としての比重が増しました。建家の前面には駐車場が設けられ、道路と敷地は車の出入りを考慮した作りとなり、現代における道路境界の消失が進んでいることを感じました。

追記2017/05/14:おかげ様で文中のK-HOUSE=in the Compound=は現在、工事の真最中です。以下のリンクと併せてご覧頂けますと幸いです。

■大津K-HOUSE=in the Compound= 設計編

00.大津で東京の設計事務所が設計・監理をする-出会う-

01.定年を控えた単身赴任後の家をリフォームするか建替えるか

02.遠隔地で行う家づくり ハウスメーカーと設計事務所の違い

03.近畿地方の家を東京で設計する

04.遠隔地の設計で建設費用を抑える方法1

05.遠隔地の設計で建設費用を抑える方法2

■大津K-HOUSE=in the Compound= 現場監理編

00.地鎮祭_大津K-HOUSE=in the Compound=

01.祠ありきの建物位置:縄張り

02.建物を支える地盤を考える

03.基礎工事の工程:掘削工事

04.基礎工事の工程:鉄筋工事

05.基礎工事の工程:打設工事

 

原風景の想うこと1_赤坂見附

原風景に想うこと2_富山市舟橋

原風景に想うこと3_滋賀県大津市膳所

原風景に想うこと4_千葉県君津市

原風景に想うこと5_港区赤坂高橋是清翁公園

原風景に想うこと2_富山市舟橋

この投稿は建築家31会のブログリレー「ばとろぐ_2013/08/20」を一部加筆したものです。

道路、河川、濠、遺構等の土木的な要素が作り出すスケール感は、街の様相が変わったとしても、大きな骨格として残るという話を前回しました。実際には、土木そのものも不変という訳ではなく、時代と共に変化しているもの事実です。

我々が暮らす都市の多くは、城下町や港町として以前から栄え、人が多く集まっていた地域といえます。これは交通の要所であったり、商業の中心地であったりと、人々の交流が盛んに行われている場所でもありました。現在の様な自動車が輸送の多くを担っている現代と違い、近代以前は水運が重要な位置を締めていたため、城下町の水路は大切な都市インフラであったといえます。

以前の職場(池原義郎・建築設計事務所)で富山市内の仕事(富山県総合福祉会館新築工事)に携わったことがあります。富山市街は富山城下を基に発展を遂げた街です。立山連峰によってもたらされる豊かな雪解け水は、神通川となり富山城下を蛇行していました。富山城はその神通川のほとりにあり、濠としての役割も担っており、水運にも利用されていたと思われます。この神通川は雪解けの頃に水量が増し、しばしば暴れ河として氾濫し、水害をもたらしたといわれます。現在は市内の西側を真直ぐ通る様に河川のかけかえが行われ、市内の神通川は松川として水辺の名残を感じさせます。当時の古地図と現在の地図を重ね合わせてみると、かつて神通川が流れていた流域は、県庁舎、市庁舎、県警本部などの官庁施設が多く造られたことが判り、それぞれの時代で、河川の存在が街の骨格を形づくったとも考えられます。

富山県総合福祉会館もこの神通川の流域内にあり、市内中心から進む建物の高層化と住宅地の境界上に敷地がありました。前面道路はかつての街道であり、神通川を渡るために小型の船を連結させてその上に板を渡していた「船橋」があったとされ、現在も地名として残っています。

計画した建物は福祉会館という性格上、誰もが使うことができる様に、街にひらかれた施設を目指して計画がされました。それと同時に都市化が進み、ある意味ではヒューマンスケールから逸脱する都市化と住宅地との境にあることから、建物ボリュームをある程度砕き、内部空間は開口部や緩やかな大階段など街との連続感を生み出す様な作り込みをなされております。

追記2017/05/13:このところ、街歩きは改めて注目されておりますが、多分にブラタモリのおかげだと感じます。大好きな番組なので、よく視聴しています。縁のある場所は特に興味深いですが、まったく知らない場所も土木的な切り口が面白いので訪れてみたくなりますね・・・。

原風景の想うこと1_赤坂見附

原風景に想うこと2_富山市舟橋

原風景に想うこと3_滋賀県大津市膳所

原風景に想うこと4_千葉県君津市

原風景に想うこと5_港区赤坂高橋是清翁公園

原風景に想うこと1_赤坂見附

この投稿は建築家31会のブログリレー「ばとろぐ_2013/08/19」を一部加筆したものです。

今週のばとろぐを担当する石川利治です。今回は私が設計に取り掛かる際に必ず想いをめぐらす「原風景」に関して記してゆこうと思います。とりとめも無い話が続くかもしれませんが、一週間、おつき合い頂ければ幸いです。

早速ですが,この「原風景」という言葉は、特に建築専門用語という訳ではありません。いわゆる「風景」という単語よりは、もう少し個人の考え方や感じ方、場合によっては時の流れといったノスタルジーな部分を内包しているのではないかと思っております。空間によって何かしらの感情の機微を伴う現象があるのではないか・・・といったことをイメージし、今回のテーマとさせて頂きました。

仕事柄、都市的な営みには深く関係を持っていると思いますが、特に身の回りの街の歴史に興味を持ち始めたきっかけは、現在の場所(赤坂7丁目)に事務所を構えてからになります。国道246号線の向かいの赤坂御用地はかつての紀州徳川家の領地であったり、神宮外苑は近代では練兵場であったりと、生活圏内の事柄で古地図を開く機会も増えました。江戸時代から現在にかけて、あるものは昔と変わらず、あるものは大きな変化を遂げていたり、その歴史的な背景をひも解く事で、街の違った表情を想像する事が面白く感じられるようになりました。

赤坂近辺はかつての江戸城の外濠にあたり、現在も飯田橋付近から赤坂見附あたりまでは、お濠の様子を留めています。赤坂見附の先に続く溜池には、当時は巨大な貯水池があったということですが、埋め立てられた現在の街の様子からは全く想像がつきません。この外濠から城内に入る門は数カ所ありますが、そこには厳重な監視を行う「見附」が設けられていました。その名残は「赤坂見附」の駅名として現代に引き継がれています。現在、解体工事が進められている赤坂プリンスホテルの南東の角あたりには赤坂御門があったとされ、その石垣の一部が現存しています。明治初期の古写真で、赤坂御門は幅の広い土橋を登りきったところに威厳を持って構えられていた様子が伺えます。土橋は国道246号線となり、上空には首都高速が走り、門(高麗門)は跡形もなく消えてしまいましたが、緩やかに登る坂道と並行に走っていたお濠や石垣の一部は、当時の様子を偲ばせます。当然、街そのもの様子は変わっているのですが、こういった土木的な要素によって構成されたスケール感は今も存続していることが感じ取れます。現在では採掘するのも困難な巨石による石垣等の遺構は、様々な時代を通して刻みこまれた年輪とともにその圧倒的な存在感でそこにありづけるのでしょう

長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース

追記2017/05/12:その後、文中に出て来る赤坂プリンスホテルは「東京ガーデンテラス紀尾井町」として生まれ変わりました。新たに濠の石垣を見るための通路なども整備され、石のディテールも伺えます。ご興味のある方は是非!!

原風景の想うこと1_赤坂見附

原風景に想うこと2_富山市舟橋

原風景に想うこと3_滋賀県大津市膳所

原風景に想うこと4_千葉県君津市

原風景に想うこと5_港区赤坂高橋是清翁公園